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決して諦めなかった靴職人への道 − 宮城 健吾さん

2013年10月30日

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Dream Achievement INTERVIEW
夢実現インタビュー
vol.16 靴職人 宮城 健吾

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「一歩でもいい、1cmでもいいから前進あるのみ
常に情熱を持ち、決して諦めなかった靴職人への道」

イタリアで靴工房を構える靴職人の宮城健吾さん。
靴職人を志して、右も左も分からずイタリアへ渡ったのは24歳の時、
毎日を只々ガムシャラに頑張り、家族の支えもあってここまでやってきた。
まだまだ修行中という宮城さんにイタリアでの生活について話を聞いた。

夢への原動力は靴への情熱と妻の存在
もっともっと技術を磨いて、いつか父の靴を

24歳でイタリアに渡り、専門学校での勉強を経て、ボローニャの老舗エンツォ・ボナフェの工房に入社。その後、イタリア靴業界の奇才ステファノ・ブランキーニ氏と出会い、靴のデザインやパターン技師としての修行を積んだ宮城さん。現在はボローニャに自分の工房を構え、オーダーメイドの靴作りに励んでいる。しかし、ここまでの道のりは決して平坦なものではなく、何度も何度も立ち止まり、悩んだこともあった。宮城さんにとっての、靴作りとは、家族の絆とは、そして今後の夢はー。

都会への強い憧れと
草靴バラバラ事件

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自然豊かな東村で生まれ育ち、子どもの頃は野山を駆け回って遊んでいたかと思いきや、実はそんな同級生たちのことを子どもっぽく感じ、絵を描いたり、工作で立体的なものを作ったりする日常を送っていたと話す。また、本土の最新ファッションや流行に興味を持ち、都会への憧れが強い子どもだった。名護商業高等学校を卒業後は、名護市内で一人暮らしを始め、フルタイムで働きながら、県外での求人を探し始めた。そして、住居は名護に残したまま、滋賀県や愛知県、神奈川県などで働き口を見付け、そこでしばらく働いては沖縄に戻って、また本土で働くという暮らしが数年間続いたという。この時の仕事は建築業や販売職など多岐に渡り、「とにかく沖縄から出たくて、できることはなんでもやってやるって感じでしたね。外に出たくて仕方がなかったんです」と宮城さん。最後に行きついたのが東京都で、ここでの生活が大きな転機となる。東京で新聞の営業所に就職し、働きぶりが認められて店長を任されることになった。その頃に購入した革靴が足に合わないという出来事があって、「捨てるのももったいないから」と靴の構造を調べるために、その靴を全部バラしてみた。バラしてみると、そのパーツの多さや構造の複雑さに驚き、「おもしろい」と思ったそうである。子どもの頃からファッションに興味があり、靴に対しても「みんなすごくおしゃれしているのに、足もとがビーサンやツッカケっていうのはちょっとまずいんじゃないかと。それをどうにかしたいなと思っていました」と言う宮城さん。この「革靴バラバラ事件」が、宮城さんの靴への興味を一気に加速させることになる。また、宮城さんの父親が重度の外反母祉で、靴の側面に穴を聞けて履いていることを思い出し、「こういう人たちにも快適に履いてもらえる靴を作りたい」という思いが重なって、靴職人への道を歩むことを決意させた。

イタリアでの新生活は
希望に満ち溢れた日々

miyagi_3決意はしたが、これまで靴製作に携わった経験はなく、どうしようかと悩んだ宮城さん。東京で出会って結婚した奥さんの影響もあって、革製品の歴史も長く靴の製造でも本場のイタリアで学びたいと考えた。イタリアは極端なほどのコネ社会であり、いきなり工房に入るのは難しいと聞いたため、まず専門学校で基礎をしっかりと身に付けてから工房で修行することを計画。また、イタリア語が話せるというわけではなかったので、奥さんと一緒にとりあえずイタリアに渡り、半年間語学学校に通いながら専門学校を探そうということになる。語学学校が終わる頃に、担任のパオラ先生に「靴の学校に行きたい」と話したところ、勧められたのが北イタリアの靴専門学校チェルカルであった。ほかの知人に聞いても同じ学校を勧められたため、ここへの入学を決めたが、ボ口ーニャの家からは遠くなってしまうため、奥さんとはしばらくの問、別居を余儀なくされてしまう。それでも宮城さんの靴職人になりたいという情熱は変わらず、専門学校生活がスター卜。言葉の壁や文化の違いがある中で、宮城さんは必死に努力し、その結果、靴の専門学校を日本人ながらも首位で卒業という結果を残すことができた。ここまでのイタリア生活はすんなりといっているようにも見えるが、学校に通っている間はもちろん収入はなく、これまでの貯金を切り詰めながら生活し、言葉の壁や文化の違いに悩まされることも多かった。また、観光のガイドブックには載っていない、リアルなイタリアを知って、がっかりすることもあった。それでも、「毎日が希望に満ち溢れていたので、沖縄に帰りたいという思いはなかったですね。つらいことももちろんありましたが、つねにポジティブでした」と話してくれた。

靴職人として成長するために
できることは全部やる

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つらい時、苦しい時もそばにいて支えてくれた奥さんと。「妻が居るからこそ今の自分が居ると思います。」

専門学校での最後の2ヶ月間は実際に靴工房での研修である。最初に行った工房ではデザインを描いたり、パターンナーの研修を受けたりと実りの多い期間ではあったが、「ここで就職したい」と伝えると「空きがないから」という理由で断られたため、再び専門学校の先生に相談。先生の紹介で、今度は家からも近いボローニャの工房に再度研修生として入ることができた。ここはボローニャの中でもとりわけ目立つ店構えの上、色気のある靴をたくさん出している会社で、すっかりここが気に入った宮城さん。研修期間が終わる頃に「ここに就職したい」という気持ちを伝えると、社長は「いいよ」と二つ返事でOKしてくれたのだとか。「すごくラッキーだったと思います。実はこの会社、当時すごい負債額を抱えている会社で、社長が寛大なのかクレージーなのかは分かりませんが、その社長じゃなければ雇ってくれなかったと思いますね」と笑う。というのも、現在でも景気後退が深刻な問題とされるイタリアであるが、十数年前も同様で、靴業界も不況に悩まされていた。そんな中、とくに先進国の外国人労働者は就職口を見付けることが困難で、労働ビザの取得も難しかったという。宮城さんも同様で、就職口は見つかったが、労働ビザは下りず、しばらくの間は会社の全面協力のもと、学生ビザで就労していた。ところが「もう1個すごくラッキーなことがあったんです!」と宮城さん。たまたまその年がローマ教皇(ヨハネ・パウロ2世)の2000年の恩赦の年に当たり、宮城さんも無事に労働ビザをゲット。そして、この会社で本格的に靴作りに携わり始め、「1つの靴を作り上げるということの大変さと楽しさ、人とのコミュニケーションの取り方など、ここで多くのことを学んだ」と話してくれた。この頃にはイタリア語も不自由ない程度に話せるようになっており、スタッフやお客さんとのやりとりにも困らなくなっていたという。大きな靴工房であれば、デザイナーやパターンナーなど、それぞれ専門のスタッフがいるが、宮城さんが働いていた会社は小さな工房だったので、すべて兼任。宮城さんにとっては逆にそれが良かった。「僕はデザイナーだけでは終わりたくなかったし、靴職人として、靴を自分の手で手掛けたいという思いが強かったので、できることは全部やろうと思ってました。」そして3年間の会社勤めを経て独立し、自分の工房を持つことになる。

お客さんの期待に応える
一切妥協なしのオーダーメイド靴

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いつも持ち歩いている道具で、足のスケッチやペンチ、皮を切る小刀、縫い針など。「日本製の小刀はすごく優れていますね。イタリアでも重宝しています」

現在は小さな工房を構え、主にオーダーメイドでの靴作りを行っている。お客さんも着実に増え、忙しい日々を送るが、決して仕上がりに妥協はしない。「以前にものすごく忙しい時期があって、ある工程で手を抜いてしまったことがあったんです。でも、それはそのままお客様の反応として返ってきた。自分を信頼してオーダーしてもらっているのだから、それにちゃんと応えるものを作らなければならない」と真剣な表情をみせる。インターネットでも注文可能で、申し込みがあってから、お客さんの足の特徴を細かく聞き取り、見積りをする。まずはサンプルを送ってみて、そのサンプルがぴったりくるまで、やりとりを続けるのだそう。その間のサンプル製作代など、追加料金が発生することは基本的になく、サンプルにOKがでればそれをもとに靴の製作作業に入る。この誠実なやり取りが認められ、リピーター率は9割にのぼるんだとか。「靴は同じものを毎日履くのではなく、1日履いて24時間休ませるというのが長持ちのコツ。私が作った靴を履いて気に入ってくれたら、またオーダーしてもらい、その靴を順番に履いてもらえるようになりたい」と話してくれた。そんな宮城さんの夢は「ギネスで認定される世界一大きな靴を作ること。それを東村で展示したい。いつか故郷に錦を飾りたいですね。そして、父の靴を作りたいです。父のような外反母趾の人でも快適に歩行できる靴を。そのためには医学の知識も必要になるので、今すぐにとはいきませんが、いつか必ず実現させてみます。」

遠くで応援してくれる両親と
いつも支えてくれる妻に感謝

miyagi_9これまで自分の道は自分で切り開いてきた宮城さんであるが、気になるのは沖縄の家族のことである。さぞ心配も大きかったのではないかという質問に、「母親とは時々連絡を取っていたが、高校生の頃から父親とはあまり仲が良くなくて、10年近く口をきいていなかった」とのこと。結婚の挨拶で沖縄を訪れた際も、父親だけ不在で奥さんと初めて顔を合わせたのも数年経ってからのことだったそうである。それを心の中でずっと気にしていた宮城さん。友人のマルチェロに相談したところ、「父親が変わることを待つんじゃなくて、自分が変わるべきだ」とアドバイスされた。かなり悩んだ末、「そっけなくされたらどうしよう」とハラハラしながら電話をかけたそうである。すると、父親はこれまで何もなかったかのように気さくに返事をしてくれた。これを聞いて「スッと力が抜けました。ちょうどその頃、これからもこの道でいいのか悩んでいた時期でもあり、両親が『イタリアで骨を埋める覚悟で頑張りなさい』と言ってくれたので、靴職人としてやっていく決心がついた気がします」と話してくれた。また、あんなに出たくて仕方がなかった沖縄についても、県外、そしてイタリアでの生活を経験して、「やっぱり沖縄が一番ですね。沖縄はみんなおおらかで、良い意味でてーげー。ちょっとイタリアに似ている部分もあるかも」と笑う。また、いつもそばにいて支えてくれる奥さんにも感謝の気持ちを表す。「妻の存在は大きかったです。ひとりでは絶対に無理だったと思います。やはり文化や考え方の違いは大きいので、いくら説明してもイタリア人には分かってもらえないこともたくさんありました。そんな時は妻と話をすることで、ずい分助けられました。妻がいてくれたから今の自分があると思います。今は自分も親になって、子どもを心配する親の気持ちはよく分かる。これからも家族を大切にしていきたい」と家族の絆を再認識した様子であった。


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夢への出発点はまず情熱を持つこと
情熱が途絶えなければ夢は現実に!

イタリアに来て13年。決して楽しいことばかりではなかったはずだが、宮城さんを奮い立たせていたものは何だったのだろうか。「すべてに置いて一番必要なのは『パッシオーネ(情熱)』だと思います。情熱があれば絶対夢や目標は叶う。何かやる出発点は情熱から始まると思っています。そこから、努力し、何があっても諦めずに信じた道を歩みを止めず進んでいく。一歩でもいい、1cmでもいいから前進していく、それが成功の秘訣だと思います。私がイタリアに渡り靴職人への道を歩んで来られたのも、最初から湧き上がるような情熱があったからだと自負しています。」まだまだ職人としては修行中だと話す宮城さんではあるが、その仕事ぶりがファッション業界でも注目を集め、有名ブランドとのコラボ企画も次々と実現。これからの活躍がますます期待されている。がんばれ宮城さん!

profile

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Kengo Miyagi 宮城 健吾 
靴工房カステッリーノ オーナー
1976年生まれ、沖縄県東村出身。イタリアのボローニャで靴工房カステッリーノ オーナー兼靴職人として活躍中。履く人のことを第一に考える丁寧な仕事が評判となり、有名ブランドとも多数コラボしている。2010年10月にイタリアの永住権(グリーンカード)取得。 いつかは沖縄にも支店(または提携店)を構え、オーダーできるようにしたいと夢を膨らませる。


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靴工房カステッリーノ

Via Canonica 9(STUDIO MIYAGI)
40033 Casalecchio di Reno(Bo)
Bologna Italy
TEL:39-349-1946456、FAX:39-051-568691
[連絡先] http://www.castellinoshoes.com/

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靴工房カステッリーノの工房兼アトリエ。宮城さんの革製品はすべてここで作られるMade in Italy。サンプルはあるがショップとしては展開していないので、来店の際はあらかじめ予約を。ホームページからも注文OK。

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